非難社会

非難社会 社会

日本は人に対する非難があふれる社会です。
政治家や芸能人はもちろんのこと、一般人も日常生活の中で、ありとあらゆる人が、ありとあらゆる人の非難を繰り広げています。
右を見ても非難、左を見ても非難、上を向いても下を向いても非難、非難。
なんでこんなにも人に対する非難が蔓延しているのでしょうね。

人への非難があふれる理由

●教育

これは、日本の教育によるところが大きいと思います。

日本の教育は、平均的な人を作る教育です。
できることや、優れたところを伸ばすというよりは、できないこと、劣っていることを人並みにできるようにし、社会規範から大きく外れない言動ができるようにする、ということを重視した教育だといえます。

いってしまえば、凡庸な量産機を生み出すための教育なのですが、凡庸な量産機は特別に優れた点がないかわりに、平均値より大きく劣っている点もないということが必須になります。

凡庸性を求める教育を実践するためには、まずは人を非難することが必要となります。
”ここはあなたの欠点だ””ここはあなたの誤りだ”と言い、劣っていること、誤っていることは悪だと非難することで、劣っていること等を人並みに矯正しようとします。

皆さんも自分が受けた教育を振り返ってみると、良いところを褒められたという経験よりは、劣っているところを怒られた、ダメだと言われたという経験のほうがはるかに多いのではないでしょうか。

このように、我々は子供の頃から、非難されることに晒されているのです。
非難されることが当たり前の世の中にずっといるのですから、自ずと、非難することを覚え、非難することが日常になってしまっても不思議ではありません。

●競争と協調の奇妙な絡まり

日本は学歴社会が根強く残っているなど、競争を求められる社会でもあります。
競争に勝ち抜くためには、人を非難し、貶めることも時には必要なのでしょう。

その一方で、和を以て貴しとなすという文化もある社会です。
和を以て貴しとなすとは、何事もみんな仲良く、協力してやりましょうね、という意味かと思います。協調性などと言われることもあるかと思いますが、これがなんか変な意味で捉えられているように思います。

協調性とは、本来は立場・環境・能力等の異なるものが、一つの目標を完遂するために、協力するという意味かと思います。
例えば、Aが得意でBが苦手な人と、Bが得意でAが苦手な人がいたとします。
前者が得意なAを後者の分まで補い、後者が前者の苦手なBを補うという相互扶助、相互補完的なものが、本来の協調性の意味かと思うのですが、協調性という言葉が、本来とは異なる意味で用いられているように思えます。
みんな同じような能力で、同じことを同じ分だけやりましょうねというのを協調性と言っている気がしてならないのです。

そして、そこに競争が入ってくると、どんぐりの背くらべ程度の差しかなくても、わずかでも能力が劣り、わずかでも同じことを同じ分だけできなかったら、目糞鼻糞を笑うかのように、能力がない、人より劣っている、協調性がない等と非難する。

本来の協調であれば、お互いの強みをいかし、事を成し遂げるわけですから、こういった競争は生じないのです。強みが異なるのだから、比べることができないからです。

変な協調の中に、変な風に競争が絡まってきてしまうから非難が起こるのだと思います。

非難があふれる日常は終わりにしよう

非難というのは、凡庸な量産機を生み出すために作られたシステムです。
これからの時代、凡庸な量産機はそれほど必要とされません。
我々が生きているうちに実現するかどうかはわかりませんが、凡庸な量産機にできることなど、そのうちAIが取って代わることでしょう。

以前に比べれば個人主義的な社会と言われることも増えてきたかと思います。
その割に人の非難は多い。
個人主義は個人を尊重しないと成り立たないのにおかしいですね。

時代を先どるためにも、非難から脱却するなんて粋かもしれません。

そんなことはさておき、非難に意味がありますか?
非難なんて、目糞鼻糞を笑う程度のものです。意味なんてありません。
非難して楽しいですか?
別に楽しくも何ともないでしょう。楽しいという人は特殊な癖の方なのでしょう。
そもそも非難するほど、他人に興味なんて持っていないでしょう。
というか、非難するために、他人に興味を向けるくらいなら、もっと自分に興味を向け、非難よりも楽しいこと、うれしいことをたくさん求めてはいかがでしょうか。
少なくとも、非難するよりは充実した人生が待っていると思います。

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