障害者に関する私見②-障害者に対する無知ー

障害者に対する私見 社会

障害者に対する私見①-障害者は不幸か?-」の続き

障害者と一括りにすることの危険性

障害者と言っても、持っている障害の内容は様々であろう。
精神障害、知的障害、身体障害など様々な障害の種類があるし、その程度も人により異なることと思う。

もちろん障害のみでなく、性格や人間性などは、障害者ということは関係なく、人それぞれ異なるという当然のことを、障害者という言葉で一括りにしてしまうことで、忘れてしまっているのではないだろうか。

実際は、人それぞれ異なるにも関わらず、障害者と一括りにしてしまうと、個別性を理解できなくなる。これは、障害者全体への誤解を生み、無知を生む元凶となってしまう。

この誤解や無知が、偏見そのものなのだから、障害者への偏見をなくすためには、障害者という言葉で一括りにしてしまっていること自体に問題があるのだろう。

障害と言われる特性を持っているのは事実だが、そこだけを見るのではなく、まずは個別の人として見る必要があるわけだが、日本は個別性が尊重される社会ではない。

例えば、〇〇大学出身だから優秀だなどと言ったように、一つの指標でその人の全てを認識してしまいがちだ。日本の社会病理と言うべきものと思うが、これが、障害者と一括りにして、障害者への偏見を生む根底に存在している。

障害者への偏見というのは、個別性が尊重されない日本の社会を象徴しているように思う。

無知は恐怖を生む

障害者に対する誤った認識

以前、電車に乗り、スマートフォンを操作していた際に、恐らく知的障害を持つと思われる方に、突然声をかけられたことがある。
はじめ、何を言っているかよくわからなかったのだが、無視をして、騒がれても嫌だと思い、何ですか?と聞き返した。そうしたら、スマートフォンを貸してほしいというようなことを言っているとわかった。何故貸してほしいのかを聞いても要領を得ず、見ず知らずの人に貸すわけにはいかないので、お断りをしたら、すぐに別の場所に移動された。

その他にも、電車やバスで、CMの1フレーズを延々と連呼している方や、電車内で車両を行ったり来たりしているような方を見かけたことがある。
実際に確認したわけではないので、事実かどうかはわからないが、これらの方は、その様子から、皆さん何らかの障害を持っていたと思われた。

これらを目の当たりにしたとき、私が抱いたのは恐怖心だ。
絡まれたり、何かされたら嫌だな、何をするかわからないから怖いなという感情だ。

その恐怖心を抱かせる、インパクトの強い、言動をされていたのが、恐らく障害を持っておられる方ということで、障害者=怖いという認識を持ってしまっている部分がある。

この認識は誤りがあると思う。
障害があろうとなかろうと、いきなりスマートフォンを貸してくれと言われれば、困惑するし、電車やバスで、CMの1フレーズを延々と連呼している方や、電車内で車両を行ったり来たりしているような方がいれば、その理解しがたい言動に恐怖心を抱く。
それらの言動に恐怖心を抱いたのだから、障害者に恐怖心を抱くというのは誤っていると思ってはいる。
また、上記のような理解しがたい言動をとる人=障害者という誤った認識を持っているともいえる。障害の有無の事実がわからないにも関わらず、上記のような理解しがたい言動をとった方は、恐らく障害者であったと思うと述べていることからも、それが見て取れる。

 

障害者の方と関わった経験

さて、私は、これまでに障害者と言われる方々に接した経験が、いくらかある。

学生時代の同級生には、身体障害で車いすで生活している方がいたし、学生時代の実習で、精神科の閉鎖病棟で精神障害の方に関わった経験もある。
教育関係の仕事をしていたこともあるので、その際は、発達障害の方にも関わった。

これら、障害者の方に関わった際に、先に述べたような恐怖感を抱くことがあっただろうか、と振り返ると恐怖感を抱くこともあったし、抱かないこともあった。

例えば、身体障害があった同級生に関しては、気の合う方ではなかったので、それほど関りがあったわけではないが、持っている障害が見た目である程度理解できたこと、コミュニケーションは普通に取れたので、理解しがたい言動と感じることはなく、恐怖心は抱かなかった。

精神障害の方々については様々だ。意思疎通を図れる方もいれば、そうでない方もいたり、理解しがたい言動をされる方もいれば、一見障害を感じさせない方もいたりと、障害の内容や程度により様々であった。理解しがたい言動や意思疎通が図れない場合は、恐怖心を感じることもあったが、そうでない場合は特に恐怖心は感じなかった。
ただ、こちらが変な関わり方をすることで、症状が悪くなったりしないだろうかという恐怖心はあった。

発達障害の子には、数名個別に関わり、勉強を教えたりすることもあった。意思疎通が図れない場面や、時に理解しがたい言動もあったが、発達障害に関する知識が全くないわけではなかったので、恐怖心を感じるということはなかった。

 

障害者に対する無知が恐怖心を生み、それが偏見となる

上記の経験から言えることは、自分の想像が及ぶことであったり、知識があることには恐怖心をもつことは少ないが、自分の理解が及ばないこと、知らないことには恐怖心を抱くということだ。

障害者に対する差別や偏見はこの無知によるところが大きいのだと思う。
無知ゆえに誤解を生み、恐怖心を生むのだと思う。
人は知らないものや、わからないものには恐怖心を持つものだろう。
障害に対する、理解が深まれば、多少なりとも、障害者に対する差別や偏見は緩和することと思う。

障害に対する無知をなくせるか?

障害者に対してなぜ無知なのか?

私は、自分の周囲にいる人や、自分が興味を持つ人以外を積極的に知ろうとは思わないし、知ろうとしない。別に障害の有無は関係ない。障害者が自分の身近にいて、興味を持てば、その障害についても知ろうと思うだろうが、身近にいない場合に、社会的問題だからとか、社会的弱者だからとか言われても、知ったことではないのだ。

薄情だとか、お前みたいな人間がいるから、障害者に対する差別・偏見がなくならないのだと言われれば、その通りなのかもしれないとは思うが、いくら非難しようとも、こういった人が多いのも事実ではないだろうか。

 

障害者に対して無知である理由1

理由の一つは、身近にいなければリアリティがないからだ。障害者が身近にいない人は、重大な犯罪を犯したのが精神障害者だったというような、偏った報道や、毎年夏にテレビで放送されている、障害者の取り組みを、美談で脚色した番組等しか障害者にふれる機会はない。所詮、テレビや報道の中の出来事で、リアリティを持つことなどできないのではないだろうか。

また、障害者というのは、隠されてきた歴史があると思っている。
普通に生活していては、障害者の方に接する機会などほとんどない。
これは、障害者が人目に触れないよう、隠されてきたからではないだろうか(差別や偏見があるから隠されたのか、隠されたから差別や偏見が生まれたのかはわからないが…)。
障害者施設が、山奥の田舎のほうに多かったりするのは、その名残ではないだろうか(もちろん地域住民の差別・偏見により反対をされ、そういった場所にしか作れなかったという事実もあると思う)。
このように、隠され、テレビや報道の中でしか、ほとんど見ることのないものに、興味・関心を持つのは難しいことだろう。当事者でないのに興味・関心を持って知ってほしいと言われても、なかなか難しいものがある。

 

障害者に対して無知である理由2

もう一つは日本という社会の問題なのだと思っている。

そもそも、日本という国は、個別性を尊重する国ではない。

私も、できることなら、他者に私自身を理解し、尊重してほしいとは思うが、そうはならないことが多いのも事実である。自分の周囲の人や、身近な人であっても同じだ。
我々の周りを見てもわかるように、平均と言われる範囲からの逸脱や、誰が決めたかもわからない一般常識がない等々を理由として、皆とある程度同じでないと、非難され、否定され、排除される社会なのだ。

個別性を尊重するには、前提として個別の人に関する興味・関心・理解が必要だ。
各個人に、興味・関心を持って理解することではじめて個人を尊重できる。

個別性が尊重されない土壌のものとでは、前提の個人に対する興味・関心・理解も当然そこまで、必要とされない。
必要とされるのは、平均や一般の範囲内に収まるか否かだけだ。

一言で言えば、他人に興味がない、障害者に興味がないという状態を作り出しているのは日本の社会の在り方そのものだのだと思う。
また、障害者と言われる方の、障害と言われる部分は、平均や一般の範囲内に収まらないから、排除されてしまうのだとも思う。

以前述べたが、日本は一つの指標でその人の全てを認識してしまいがちだ。
平均や一般という一つの指標で、そこに収まらない部分を持つから障害者と分類し、障害者ということが全てと認識してしまって、一部分が平均や一般に収まらないだけにも関わらず、排除してしまっているのではないだろうか。

 

障害者に対する無知を解消できるか?

障害者に対する無知は、各個人が個別性を尊重する意思を持ち、他者に興味・関心を持って理解するよう努めれば、解消できるのではあるが、現状、日本の社会はそういう風にはできていない。
つまり、障害者に対する無知をなくすためには、日本の社会の在り方を変える必要があるのだが、道徳教育や倫理教育だけでは限界があるのだと思う。
その道徳教育や倫理教育を行っている者が、個別性が尊重される社会に生きていないので、個別性を尊重できる人ではないからだ。

個別性を尊重できる人が育たないのだから、当然、個別性を尊重できる社会にはならないだろう。そうなれば、障害者の方は今まで通り隠される傾向にあるのであろうし、障害者の方を理解する機会も多くはならない。

現状、障害者に対する無知は、容易には解消できないのだと思う。

最後に

まとまりに欠けることを書いてしまったので、ツッコミ所が満載なのだが、これに限らず、まとまりのないことばかり書いているので、気にしないことにする。
本件に関しては、また、別の機会にも続き?を書ければと思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました