最近、コミュニケーションにおいて、共感の重要性が説かれることが多いように思います。
共感だと思っているそれは、本当に共感なのでしょうか?
共感とは
きょうかん【共感】
( 名 ) スル
① 他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること。同感。 「 -を覚える」 「彼の人生観に-する」
② 〘心〙 〔sympathy〕 他人の体験する感情を自分のもののように感じとること。
③ 〘心〙 〔empathy〕 ⇒ 感情移入かんじよういにゅう
『大辞林 第三版』(三省堂)より引用
共感とは、上記のような意味です。
コミュニケーションにおける共感の重要性が説かれる場合、平たく言えば、相手の立場に立って、物事を感じ、考え、相手のことを理解することが共感と言われているようです。
もちろん、共感しようとするという姿勢は大切だと思います。
共感しようとする姿勢を欠けば、自己中心的、自分勝手、自分本位などと評され、コミュニケーションは破綻します。
共感は虚構でしかない
共感という姿勢は、大切だとは思います。
一方で、共感というのは虚構でしかないとも思います。
「他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずる」としても、あなたが感じていることと、他人が感じていることは、完全には一致していません。
「他人の体験する感情を自分のもののように感じとる」としても、自分のもののように感じているだけであって、「他人の体験する感情」と、あなたが自分のもののように感じている感情が同一であるわけではありません。
それは、全てのことが、あなたというフィルターを通しているからです。
どんなに相手の立場に立って、物事を感じ、考えようと、あなたは相手ではないのです。
あなたと相手は異なる人なのですから、お互いが完全に一致するような共感は無いのです。
共感した、共感できると思っていても、それは、あなたというフィルターを通した上で、あなたが作り上げた創造物、虚構でしかなく、相手のものではないのです。
共感は虚構でしかないと理解することが、共感しようとする姿勢を生む
共感ということをテーマにして、他者とのコミュニケーションで”腹が立つ”ことを考えてみると、わかったような顔をされることが、腹が立つことの一つに挙げられるのではないかと思います。
共感できるなどと思っている人は傲慢です。
”わかる”などと言って、わかったような顔をして、相手を腹立たせているのです。
共感なんてできないと思っている人はどうでしょうか。
安易に”わかる”などとは言わないと思いますが、どんなに頑張っても共感なんてできないのですから、共感しようとする姿勢すら見せずに、相手を腹立たせているかもしれません。
しかし、共感できると思っている人は、共感できていると思い込んでいるのですから、共感しようとする姿勢は生まれません。
また、共感なんてできない、共感なんて虚構だと理解している人は、どうせ無理なのだからと共感する姿勢は生まれないかもしれません。
一方で、共感なんてできないからこそ、相手のことを理解するためには、安易にわかったふりをしないで、わからないからこそ、少しでも理解するために質問したり、想像するなどといった共感しようとする姿勢が生まれるかもしれません。
コミュニケーションにおいて大切なのは、共感できることでも、共感することでもありません。
共感だと思っているそれは、虚構でしかないと理解し、だからこそ、少しでも相手の感情や考えに近づこうとする、共感しようとする姿勢が大切なのであって、その姿勢が、コミュニケーションを生むのだと思います。
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