当たり前を疑う

当たり前を疑う 教訓

世の中には”当たり前”と言われることがたくさんある。
しかし、その”当たり前”のことが、本当に”当たり前なのかと疑問を持つこともある。
私も、この”当たり前”という言葉をよく使ってしまうのだが、”当たり前”のことがおかしいこともあるのではないだろうか。

 

当たり前とは

あたりまえ【当たり前・当り前】
( 名 ・形動 ) [文] ナリ 
〔「当然」の当て字「当前」を訓読みした語〕
① だれが考えてもそうであるべきだと思うこと。当然なこと。また、そのさま。 「困っている人を助けるのは-のこと」
② 普通と変わっていない・こと(さま)。世間なみ。なみ。 「 -の人間」 「 -にやっていたのでは成功しない」

『大辞林 第三版』(三省堂)より引用

 

”当たり前”とは上記のような意味だが、言い換えれば、世間一般に蔓延る価値観や、一般常識と言われるようなものが、”当たり前”のことなのだろう。

正誤は関係なく、大多数の人が”それが普通”と思い込んでいることが、”当たり前”のことなのだ。

我々は、これまで生きてくる中で、様々な場面でこの”当たり前”を刷り込まれ、”当たり前”が正しい事だと思い込んでいる。

しかし、”当たり前”=正しい事ではない。
大多数の人が、そう考えているというだけのことなのだ。
我々は、ともすれば、少数派を異端だと見なしてし、否定的に見るが、多数か少数かということが物事の正誤を決めるのではない。

多数でもおかしなこともあるし、少数でも正しいこともあるのだ。

それを無視して、多くの人がそう考えているのだから、実際は別にして、それが正しいのだと言わしめるのが、”当たり前”という言葉なのだ。

 

”当たり前”は変化する

”当たり前”と言われているものは、時代の流れや、社会の風潮の変化によって、変わっていく。

例えば、一昔前なら、サービス残業や長時間労働など”当たり前”で、法律に反しているにも関わらず、それが”当たり前”だからという理由で、黙認されてきた。
サービス残業や長時間労働に理不尽や疑問を感じながらも、”当たり前”だからと、割り切ってきた人がほとんどだろう。

しかし、最近では社会の風潮の変化により、サービス残業や長時間労働を厳しく取り締まろうとする動きが出ている。

一昔前は”当たり前”であったことが、最近では当たり前でなくなろうとしているのだ。

これは、”当たり前”と言われていることが、必ずしも正しいわけではないし、”当たり前”が時代の流れとともに変化する流動的なものであることを表していると言える。

今”当たり前”と言われていることが、一年後には”当たり前”でなくなっているかもしれない。
それくらい、”当たり前”と言われているものは曖昧なものなのだ。

そんなものを”当たり前”だからと信じて、他者にも強要し、”当たり前”でないものを排除するというのはいかがなものかと思う。

 

当たり前を疑う

上記のように”当たり前”のことは、明日には”当たり前”でなくなってしまうかもしれないもので、それが絶対的なものではないのだ。

だから、何でもかんでも”当たり前”と言って人に押し付けず、”当たり前”だからと言って、自分を無理に納得させたりせず、”当たり前”を疑ってほしいと思う。

”当たり前”が間違っている、おかしいと思うことも少なくないはずだ。

”当たり前”から解放されたら、今より多少なりとも人生が良いものになるのかもしれない。

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