それは誰のための言葉か

それは誰のための言葉か 教訓

頼みもしないのに助言をくれる人、いかにもあなたのために言っているという顔をする人がいます。

こういう人の話を聞くと、それは誰のために言った言葉なのかという疑問を抱くことが多々あります。

自分が誰かに言葉を発する時も、それが誰のための言葉なのかを理解したうえで発する必要があるのではないでしょうか。

 

それは誰のための言葉か

年長者や経験者などからの助言、説教、体験談等々の話を聞く(聞かされる)ことは、社会で生きていれば、よくあることかと思います。

これらの話が、為になると感じることもあれば、鬱陶しいなと感じることもあるでしょう。

鬱陶しいと感じる場合は、それが、相手のために話されたのではなく、話した人が自分自身のために話しているのです。

例えば、助言という体で話した場合、それは、自分の優越性を示すためであったり、根底にある劣等感を拭うためであったり、自分が優れた人間であると認めてほしいといった承認欲求を満たすためのものであったりします。

つまりは、助言という”相手のため”という形をとりながらも、一言で言えば、自己満足のために話しているのです。

これは、話を聞かされているほうからすると、何も届かない言葉で、どうでもいい話に、ひどい時には話す人の自慰行為に付き合わされて、無駄な時間を浪費させられるのですから、苦痛以外の何者でもありません。

このことに気付かずに、偉そうに助言してやっているとか、若いからわからないんだろうけどなどと大きな顔をしている人が多くて痛々しい気持ちになることが多々あります。

相手の為という顔をして、自己満足のために相手を付き合わせて、良いことを言ってやったと偉そうにしているのですから、恥ずかしいことこの上なしなのです。

自分が相手に助言、説教、体験談等々を垂れる場合は、それが誰のために言おうとしていることなのかを今一度、自分の心に問うてみるほうが良いかと思います。

 

聞き手には、それが誰のための言葉なのかを見抜かれている

人の為と言いながら、自己満足のために話している人は多いのですが、聞き手からすると、それが誰のために話されたことなのかは、大抵の場合見抜いています。

見抜いているからこそ、似たようなことを言われていても、為になると感じることもあれば、鬱陶しいと感じることもあるのです。

基本的に、人は他者を理解することはできませんので、話している人が何を思って話しているかはわかりません。

そのため、聞き手の受け取り方、感じ方しだいということも言えなくもないのですが、本当に相手のために話している人の場合、相手の立場や状況等、相手のことを理解するよう努め、相手に配慮して助言等をしますので、押しつけがましいことはなく、「自分とは違うので役にたつかはわからないが…」などのように、謙虚さが感じられたり、必要と思ったことのみを伝えてくれたりします。

一方で、自己満足のために話す人は、上記のような相手への配慮等は一切なく、言ってしまうと、単なる自分語りに終始し、自分が言いたいことを言っているだけということが多いです。

似たようなことを言っていても、言葉の節々に聞き手への配慮の有無が見て取れますので、聞き手側は思いのほか簡単に、誰のために言っているかを見抜けます。

似たようなことを言っているのであれば、どちらも為になるのではという意見もあるかもしれませんが、自己満足のために話す人の言葉は、相手には自己満足のために話しているなと見抜かれていますので、その時点で相手には届かないし、響かないのです。

言葉なんて、相手に届かなければ何の意味もありませんので、自己満足のために話す人の言葉が役に立つなんてことはあり得ないのです。

 

相手のためにと言いながら、自己満足のために話す人にはならないように

相手のためにと言いながら、自己満足のために話すようなしょっぱいに人間にはなりたくないものです。

比較的、年長者に自己満足のために話す人が多いと感じる人が多いかと思いますが、これは、日本が年功序列的な社会だからです。

年長者の話は、年少者からすれば聞かざるをえないもの、聞いている振りをせざるをえないものなのです。

それを、相手のためになっているなどと勘違いして、得意気に自己満足のための語りをするような恥ずかしい人間にならないよう気を付けましょう。

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