世の中に公平な客観的評価など存在しません。
存在するのは、不公平で主観に満ちた評価のみです。
公平な客観的評価とは?
●こうへい【公平】( 名 ・形動 ) [文] ナリ
かたよることなく、すべてを同等に扱う・こと(さま)。主観を交えない・こと(さま)。
●きゃっかんてき【客観的】( 形動 )
個々の主観の恣意しいを離れて、普遍妥当性をもっているさま。
●ひょうか【評価】( 名 ) スル
①物の善悪・美醜などを考え、価値を定めること。 「死後に学説の-が高まった」
②品物の値段を定めること。また、その値段。 「土地の-が年々上がる」 「 -額」
③物の値打ちを認めてほめること。 「 -できる内容の本」
以上3項目、『大辞林・第三版』(三省堂)より引用
上記のことから、公平な客観的評価とは”偏りがなく、個人の主観を離れて、全てのものに共通かつ適切である基準に基づく価値決定”と言える。
少しわかりずらいと思うし、自分でもあまりうまく説明できていないが、何となくイメージしていただければ幸いです。
例えば、神様が作った、全人類共通の能力判定テストがあったとして、そのテストの点数のみで評価を下すということであれば、これは公平な客観的評価と言えると思います。
仕事で個人の営業成績及び売り上げ、稼働効率(ここでは単純に営業にかけた時間に対して、いくら売り上げたかという意味)等、数値化可能な基準に基づき給料・昇進を決定するという場合も公平な客観的評価と言えます。
学校でテストの点数のみで成績を決定するというのも、公平な客観的評価と言えるでしょう。
なぜ、公平な客観的評価がなされないのか?
他の記事でも書いていますが、人間は多様性を持つ生き物だからです。
評価のためのある基準を設けたとしても、それは人間の一面を測ることしかできません。
それのみで評価を決定するということは倫理的にも問題があるというもっともらしい意見があるのからだと思います。
学校での教育は勉強を教えるだけではなく、人間性を育むということも求められますが、上記のようにテストの点数のみで成績を決定したのでは、人間性に関わる部分の評価はできません。だから、授業への姿勢なども評価基準に含まれているのだと思います。
仕事の場合は、昇進すれば管理職となり、チームや部下を取りまとめるなど、リーダーシップを求められますが、数値化可能な基準による評価が高い=リーダーシップ力が高いとは限りません。
現状できうる数値化可能な基準では、人間の一面しか評価できません。
また、人間性の部分の評価は数値化などできません。
例えば、協調性がある人は10点追加する等と数値化したとしても、以前「事象は関係性の中で生じる」でも書きましたが、同じ言動をしても関係性が異なれば、捉え方も異なるため、評価者と対象者の関係性により評価が異なってしまうからです。
よって、人間性の部分の評価は、評価者の主観に頼ることになってしまします。
このように多様性をもつ人間を評価するうえでは、公平な客観的評価は不可能なのです。
不公平で主観に満ちた評価はそんなに気にしなくていいと思います。
他者がする自分に対する評価は不公平で主観に満ちた評価です。
言ってしまえば、評価者が勝手に自分に対する評価をしているにすぎません。
別にその評価が正しいというわけではないので、必要以上に評価を気にしたり、評価に振り回される必要はありません。
自分に自信を持って、堂々としていれば良いのです。
同じようにしていても、ある人からは悪い評価をされ、別の人からは良い評価をされるということはままあります。
ただし、評価を全く気にするなというわけではありません。
特に組織内においては、評価者は評価する権限を与えられた人=その組織での評価の基準となる人ですから、その人の評価を全く無視していては、組織内での立場を悪くしてしまう可能性もあります。
また、周囲に影響力がある人や、何かと発信する人(人の悪口ばっかり言っている哀れな人のこと)の評価にも注意が必要です。
そういった人たちからの悪い評価が伝染すると、自分のことをよく知らない人からも悪い評価をされる(評価というよりも評判ですかね)ことがあります。
人からの評価はほどほどに受け取りましょう。
評価を気にしすぎて、自信を無くしてしまったり、自分らしさを発揮できなくならないよう、かといって、評価を無視しすぎて自分の立場を悪くするような墓穴を掘らないよう、ほどほどさが大切かと思います。
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