人は誤解をする

人は誤解をする 教訓

人は誤解をする生き物です。
今、自分が理解したと思ったことも、他者が理解していることも、全て誤解かもしれません。

 

人は誤解をする

自分が理解していることは、全て誤解かもしれません。

それは、人は何かを理解する時、必ず自分というフィルターを通すからです。

ある事象があったとしても、それをありのまま理解しているわけではありません。

人は自分の参照枠に照らして物事を理解します。

参照枠とは、各個人が持つ事象を理解・解釈する際の癖とかバイアスのようなものです。

例えば、雨の日に大切なものを失くした人がいたとします。

雨と大切なものを無くすということ自体に因果関係はなくても、雨の日に大切なものを失くしたという体験から、雨の日はその人にとっては、不吉な日、不運な日という理解・解釈をするようになります。

一方で、雨の日に失くした大切ものが見つかったという人がいたとします。

こちらも、雨と大切なものが見つかるということに因果関係はないのですが、雨の日に失くした大切なものを見つけたという体験から、雨の日はその人にとって、幸運な日という理解・解釈をするようになります。

このように、同じ雨という事象であっても、各個人のそれまでの体験等で形成された参照枠によっては、真逆の解釈・理解に至る場合もあるのです。

参照枠はそれまでの体験等から形成されるのですから、全く同じ参照枠を持つ人はいません。
各個人が、それぞれオリジナルの参照枠を持っているのです。

だからこそ、人は誤解をします。

Aという事象をBと理解する人もいれば、Cと理解する人もいる。

自分ならこう言われたら、Aと捉えると思って言ったことも、参照枠が異なるのですから、Bと捉えられることもあるのです。

人は誤解をするということを忘れてはいけません。
それは、理解力がないとか、能力が劣るからではありません。
単に参照枠が異なっているということに過ぎないのです。

 

人に期待してはいけない

人が誤解をするのは、仕方のない事なのです。

だから、人に理解してほしいなどと期待してはいけませんし、誤解されたことを嘆いてもいけません。

それは仕方のない、当たり前のことなのです。

他者があなたを誤解するのは、あなたの所為でも、他者の所為でもありません。
理解・解釈の仕方が異なる、つまり異なる人間だというだけのことです。

また、自分が他者を理解できたなどと慢心してはいけません。
理解できたと思ったそれは、誤解かもしれません。

あなたは、あなたのことを誤解している他者に、あなたのことをわかったような顔をされるとどう感じますか。

きっと不快に思うことでしょう。

あなたが理解したと思っている他者も同じように感じているかもしれません。

人は誤解をするという前提を忘れてはいけないのです。

 

人は誤解をするからコミュニケーションをとる

人は誤解をするからこそ、コミュニケーションを取ります。

誤解による齟齬を少しでも無くすためにです。

コミュニケーションを取ったところで、誤解がなくなることはありません。

そもそも参照枠が異なるのですから、当然です。

しかし、コミュニ―ケーションを取らなければ、溝は深まるばかりです。

少しでも近づけるよう、これ以上離れないようにコミュニケーションをとるのです。

理解できないのだからコミュニケーションなんて無意味なのかもしれません。

それで生きていける人は、それでもかまいません。

ただ、人と関わって生きたいのなら、コミュニケーションを取りましょう。

何もしないで待っていても、理解されることも理解することもありません。

そして、あの人はこういう人だなどと、理解した気になって他者にレッテルを貼ってはいけません。

誤解を押し付けるような厚かましい人間は嫌われますよ。

いつでも、その理解を改変できるよう柔軟でありましょう。

そして、コミュニケーションをとって、自分の参照枠を広げましょう。

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