以前、「マナーが悪い人は余裕がない自己中な可哀想な人です。生暖かく見守りましょう。」ということについて書きました。
何故、こういったマナーの悪い人がいるのかを考えた結果、自分も根本では彼らと大差ない考えを持っているのではないかと思ってしまいました。
関りのない人は道端の石ころ
私は、このブログの中で、人のことは尊重すべき、ということを何度か書いていますし、その考えは今も変わっていませんが、尊重すべき人が、限定されています。
それは、多少なりとも関わりのある人のことを前提にしていたのです。
そして、自分にとって全く関わりのない人は、自分にとってどういった存在かを考えたとき、道端の石ころと大差ないという結論に至りました。
全く関わりのない人は、話したこともなければ、顔を見たこともない、存在しているかしていないかさえわからない人なのです。
多くの人が、全く関りのない人を、道端の石ころ程度にしか考えていないと言えるでしょう。
上記のマナーが悪い人は、この関わりの範囲が狭い人なのだと思います。
例えば、電車で隣に座った人は、電車で隣に座ったという関りがある人なのですが、マナーの悪い人は、この関りを認識できない、関りのない人と思っている人なのです。
彼らにとっては、電車で隣に座った人も、関わりのない、道端の石ころです。
だからこそ、マナー悪く、自分勝手に振舞うことができるのでしょう。
それはさておき、誰であっても、全く関りのない人を気に留めることなんてないでしょう。
道端の石ころと同じなのです。
ある人から見れば、価値ある人も、別の人から見れば、道端の石ころ程度かそれ以下の価値しかない人なのです。
自分に害をなす人はごみクズ
自分と全く関りのない人は、道端の石ころと大差ありませんが、自分に関わりのある人で、自分に害をなす人は、ごみクズです。
人は尊重されるべきとは言っても、自分に害をなす人を尊重できるような、優れた人間性の持ち主はそうそういないことでしょう。
ごみというのは、身近にあると快いものではありませんし、心身共に不快感を生みます。
衛生環境を害し、害虫の発生を招くなど、あまりいいことはありません。
自分に害をなす人はどうでしょうか?
自分に害をなす人が身近にいて快く感じる人はいないでしょうし、心身共に不快に感じることでしょう。
そして、彼らは、自分の精神衛生を害し、悪口・陰口といった類のもので、自分を攻撃するための害虫ともいえる仲間を増やします(もちろん、害虫同様、他の人からも忌み嫌われる存在になることもあります)。
そう考えると、自分に害をなす人は、まさにごみクズそのものなのです。
ごみクズは捨ててしまおう
ごみをいつまでも手元に置いておきたいという人よりは、ごみは早く捨ててしまいたいと思っている人のほうが多いのではないでしょうか。
ごみ同様、自分に害をなすごみクズ人間も早く捨ててしまうほうが良いと思います。
ただし、方法は簡単ではありません。
粗大ごみの回収には別途料金がかかったり、回収の手配をする手間がかかったりするように、ごみクズ人間の処分には手間がかかるのです。
手間はかかっても、ごみは早く自分の中から捨ててしまうほうが良いので、自分の中からごみクズ人間の存在を消してしまうことがてっとり早いかもしれません。
ごみクズ人間の存在は無視して、気にしないことです。
そうはいっても、不快なごみは目につくように、ごみクズ人間もいつまでも目について、捨てるのも楽じゃないんですよね。
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