偽善者を嫌いという人は多いのではないでしょうか。
先日、とある番組で、ヘアドネーションに関して特集をしていました。
10代の子たちからの毛髪の寄付も多くあるというようなことも言っており、実際に寄付をした人や、将来的に寄付をしたいと髪を伸ばしている子なども紹介されていました。
その時、ふと思い浮かんだのが偽善という言葉です。
彼らの行いが偽善というわけではありません。
中には自己満足のためという子や、それこそSNSで投稿するためという子もいるんだろうなと、私が勝手に邪な想像をしただけです。
それと同時に、偽善ってそんなに悪い事かなとも思ったのです。
偽善とは?
ぎぜん【偽善】
本心からではない、うわべだけの善行。
『大辞林 第三版』(三省堂)より引用
偽善とは、本心からではない、自分を善人に見せるために、うわべだけの善行を行うことのようです。そして、その背景には、自己満足などをはじめとする、自分のためという自分優先の本心があるにも関わらず、それを他者のためなどと、嘘をつき、自分を善人に見せようとする腹黒さのため、嫌われるのでしょう。
私も、偽善者は嫌いでした。
例えば、災害地域にボランティアに行くような人も、人の役に立っていると思いたい、自己満足のために行っているだけの人たちだろうくらいに思っていました。
人の本心はわからない
ただの偽善だろう思っている行為を行う人の本心をあなたはわかるでしょうか。
よくよく考えると、自分が勝手に偽善と思っているだけで、偽善に見える行為を行っている人の本心なんてわからないものです。
それにも関わらず、自分の主観で偽善と決めてしまうのは、いささか乱暴な気もします。
行動を見ればわかるという人もいるかもしれません。
例えば、口先では良いことを言っておいて、実際には何も行動しないような人を見れば、偽善と思うかもしれません。
しかし、それを言った時は、本心から、”人のために”という思いで言っていたのかもしれません。そして、何らかの事情があってたまたま行動に移せなかっただけかもしれません。
人なんて、本心から言ったことでも、行動に移せないことなんて多々ありますから、偽善を本心からではないものとするのであれば、行動に移せなかっただけで、それを偽善とすることはできないのではないでしょうか。
そもそも、人の本心なんて、他人がわかるものではないので、偽善というのは、自分が勝手に偽善というレッテルを貼っているにすぎないのだと思います。
人は皆、偽善的
人は皆、偽善的だと思います。
それは、人はどこまでいっても、自己中心的、自己優先的な生き物だからです。
例えば、純粋に本心から、人を助けたいとボランティアに勤しむ人がいたとしましょう。
この場合、ボランティアをする動機は、人を助けたいという気持ちです。
言い換えれば、人を助けたいという気持ちを満足させるため、つまり自己満足のために、ボランティアをしているとも言えます。
このように、人の行為の前提には、自分を満足させるものなり、自分が得るものがあるという予想があるのです。
精神的なものであれ、物質的なものであれ、得るものが何もなければ、人はその行為を行うことはありません。
だから、本心から人を助けたいとか、人の役に立ちたいと思っていても、その源には人を助けたという満足感を得たいとか、人の役に立って充実感を得たいといった何らかの欲求があります。
そういう意味では、本心であろうとなかろうと、人の行いは全て偽善的であると言えます。
偽善であろうと、それが人のためになれば何も問題はない
本心から、人を助けたいと思っている人と、本心では、自分を善人に見せたいので人を助けようと思っている人がいたとします。
前者は善人で、後者は偽善者と呼ばれるのかもしれません。
しかし、両者とも、同じボランティアをして、それによって他者が助けられたのであれば、その行為に差はあるでしょうか?
動機が異なるだけで、両者とも他者を助けているのですから、助けられた他者から見たら、両者に等しく感謝することでしょう。
自分を善人に見せたいという、自分本位な動機であっても、それが人のためになるのなら何の問題もありません。
助けられる他者がいて、自分を善人に見せるという欲求も満足させられるのですから、Win-winの関係と言えるかもしれません。
本心がどうかは、関係ありません。
うわべだけでも別にいいと思います。
重要なのは、それが人のためになるかどうかです。
偽善者が嫌われるのは、自分を良く見せることに終始し、それが人のためになっていないからなのでしょう。
まあ、一般的には、こういう人のことを偽善者というのでしょうね。
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