世の中には、常識と呼ばれるものや、一般的な価値観というものがあります。
人によっては、自分のことを常識的で一般的な価値観を持っている人間であると、自称している人もいることでしょう。
常識や価値観が必ずしも正しいわけでない
世間に蔓延する常識や価値観と呼ばれるものは、それが必ずしも正しいとは限りません。
常識や一般的な価値観は、例えば、国によっても異なりますし、同じ国であっても、時代や社会の変化によっても変わってくるものです。
日本人の生活様式だって、過去と比べると、見違えるほど変化しています。
それだって、常識や一般的な価値観が時代の流れや社会の変化によって変わってきた証拠なのです。
このように、常識や一般的価値観と呼ばれるものは、流動的で必ずしも正しいわけではないのです。
過去に常識と思われていたことが、今では非常識とされることだってあるのです。
それにも関わらず、人は常識や一般的価値観を必要以上に重視します。
常識や一般的価値観から外れるものには敏感に反応して、否定し排除したがります。
誰が決めたかもわからないような常識や一般的価値観というものは、完全に無視しろというものではありませんが、それが全てで、それが正しいわけではないのです。
そんなものに必要以上に縛られているから、日本はまだまだ多様性を受け入れない社会なのかもしれません。
常識を訴える人
世の中には、常識を訴える人がいます。
常識を訴える人というとわかりにくいですが、要はすぐに”常識が~”などと言う人のことです。
こういう人は、事あるごとに”常識で考えればわかる”とか、”常識がない”と他者を否定したりします。
常識や一般的価値観というのは、必ずしも正しいわけではないく、流動的なものであると上で述べました。
世の中には、多くの人にある程度共通する常識というものは確かにありますが、その共通する常識を個人レベルで比較すれば、1人1人で微妙に異なっていることだってあります。
常識は流動的なのですから、定型的で決まりきったものではないのです。
だから、人によって微妙に異なるということは、あって然るべきで、常識と言っても、個人の価値観に左右される部分もあるのです。
それにも関わらず、常識を訴える人は、自分が常識があると認識しており、自分の常識が世間一般の常識と一致していて正しいと誤解しているのです。
皆さんも、”常識が~”などと言う人ほど、常識がないと感じたことはないでしょうか?
それもそのはず、常識が正しいわけではないという常識をわかっておらず、自分の常識が正しいわけではないという常識をわかっていない人なのですから、常識がないと感じても不思議ではないのです。
常識や価値観を疑えないと成長しない
世の中にある常識や価値観もそうですが、自分の常識や価値観を疑えない人は成長しません。
それは、自分の常識や価値観に固執するからです。
つまりは新しい常識や価値観を受け入れることができずに、思考が硬直するのです。
自分の常識や価値観が正しいと誤解しているのですから、彼らにとって、新しい常識や価値観は間違っているのです。
それを受け入れることができないのは当然と言えば当然かもしれません。
しかし、新しい常識や価値観を受け入れられないと、多様性を受け入れることもできませんし、常識や価値観にそった、新しい思考、発想も生まれません。
そんな人が、成長できると言えるでしょうか。
自分の常識や価値観が正しいと思っているのですから、変化の必要すら感じていないのです。
成長とは変化することです。
それにも関わらず、自分は正しいから変化は不要というのですから、成長などしないでしょう。
常識や価値観などといって、他人を否定するくらいなら、まずは自分の、そして世間の常識や価値観を疑ってみてはいかがでしょうか。
そうすることで、新しい何かが見え、人として成長できるかもしれません。
コメント