人の目、他人の目が気になるという人は、少なくないと思います。
誰でも、他者の目というのは、多少なりとも気になると思いますし、社会の中で生きている人であれば、当然のことかもしれません。
しかし、他者の目を気にしすぎると、自分を見失ってしまうかもしれません。
他者の目
人は社会の中で生きていると、常に他者の目に晒されています。
他者の目とは、他者から見た自分に対する、評価、評判などのことです。
社会の中で生きていれば、この他者の目を全く気にしないで生きていくというのは難しいと思います。
他者の目を全く気にせず生きていれば、孤立し社会の中で生きていくのは難しいからです。
しかし、人によっては、それほど気にしないという人もいれば、気にしすぎるという人もいることと思います。
その差を生むのは、特定の一つの要因によるものではないと思います。
他者の目を気にする程度というのは、これまで生きてきた体験の中で、否応なく身に付けてきた癖のようなものだと思います。
だから、他者の目が気になるという人が、他者の目を気にしないようにするというのは容易ではありません。
他者の目を気にしすぎると、自分を見失う
他者の目を気にしすぎると、自分を見失ってしまうことがあります。
それは、他者の目を気にしすぎると、他者の目を基本とした言動をとってしまうからです。
他者の目を気にするというのは、端的に言えば、他者の自分に対する評価、評判が気になるということであり、その根底には、他者に”良く見られたい”という欲求があるのです。
だから、他者の目を気にしすぎると、他者に良く見られるための言動をとってしまいがちになるのです。
他者に良く見られるための言動ですから、それが、本来の自分の言動でも、自分が望む言動でもない場合だってあります。
その不一致で、ある意味混乱してしまい、自分を見失ってしまうことがあります。
また、他者に良く見られるための言動をとったからといって、他者が必ずしも良く見てくれるわけではありません。
他者が自分をどう見ているかも、それを元に他者に良く見られる言動を考えるのも自分なのです。
自分が、他者が自分をどう見ているかを想像し、その想像を元に、他者に良く見られるためにはどうすればよいかを想像して言動を決定しているにすぎません。
全ては、自分の中で仮説に仮説を重ねてやっていることなのです。
それに対して、他者が必ずしも良く見てくれるとは限らないというのは想像に難くないと思います。
そうして、他者に良く見られるための言動をとったつもりにも関わらず、他者が良く見てくれないということが、往々にして起こるので、ますます混乱して、自分を見失い、さらに他者の目が気になるという悪循環に陥ります。
他者の目を気にしてもしかたがない
他者の目が気になる、でも、それを止めたいと思っている人に言っても、全く何の意味もないことではあると思いますが、他者の目を必要以上に気にしたからといって、自分を良く見てくれるとは限らないのですから、他者の目を必要以上に気にしても、しかたがないのです。
良い意味で、”他者の目なんてどうでもいい”という、ある種の開き直りが必要かもしれません。
そうはいっても、そう簡単にはいかないから、他者の目が気になってしまうのです。
私も、他者の目を必要以上に気にするタイプでしたが、他者の目を気にしたって、自分の望むように、他者が自分を見てくれることなんてないということに気付いてから、以前ほど他者の目を気にすることはなくなりましたし、気になった時があっても、”気にしてもどうしようもないし、どうでもいいや”と切り替え、開き直れるようになってきたと思います。
こういった気づきが、一つのブレイクスルーになることもあるのでしょうが、他人からそう言われたからといって、同じようにできるかと言われると難しいかもしれません。
他者の目が気になっている時は、自分の中で、他者の目に対する思考なり、会話が始まってしまっているのでしょう。
そんな時は、そこから気をそらすといいかもしれません。
”どうでもいい”とか、”気にしない”と自分の中で、念仏を唱えるように繰り返し呟いても良いですし、何かの作業に集中するとか、頭の中で、簡単な計算を繰り返すとかでも良いと思います。
気をそらせば、他者の目に関する自分の中での思考なり会話は止まります。
そうやって、他者の目を気にしない瞬間を積み重ねることが、一つのトレーニングになるかもしれません。
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