先の見えた人生
人はある程度の年齢になると、”自分の人生、先が見えたから”などと言います。
先の見えた人生とは、自分はこの先、こういう人生を送るであろうという見通しがたったということです。
見通しと言っても、それはポジティブというよりは、”自分の人生こんなものだろう”といった、ある種の諦めや、絶望とまではいかなくても、それに近いものであることが多いです。
この、先の見えた人生ですが、これは、世間一般の価値観とか風潮に当てはめて想像して、自分が勝手に言っているに過ぎないものです。
先のことは誰にもわかりません。
明日のことすらわからない人生を、”先が見えた人生”というのは、間違いなのですが、人は何故”先が見えた人生”などと言うのでしょうか?
それは、人生に疲れてしまったから、”自分の人生、こんなもんでいいや”という諦めや、”こんなもんでいい”と自分を納得させるためなのかもしれません。
”先の見えた人生”は、ある種のもう頑張らない宣言と言っていいのかもしれません。
先の見えた人生には、見えた先以下の人生しかない
そんな、”先の見えた人生”ですが、”先の見えた人生”には、見えた先以下の人生しか待っていません。
”先の見えた人生”は、足掻くこと、もがくこと、くすぶり続けることを辞めた人生です。
そんな人生に、見えた先以上の人生が待っているはずもありません。
良くて見えた先の人生が待っているだけで、多くは、見えた先よりも劣るような人生になることでしょう。
それは当然です。
足掻くこと、もがくこと、くすぶり続けることをやめるとは、自ら人生を放棄し、頑張ることを辞めることです。
そんな先に、見えた先よりも優る人生が待っているわけがないのです。
”先が見えた人生”などという人は、おそらく今も”クソ”みたいな人生なのだと思います。
そして、この先も、その”クソ”みたいな、”クソ”以下の人生が待っているのです。
人生の先なんて見えないが、見るなら希望ある人生を見たほうが良い
人生の先なんて見えません。
しかし、”人生先が見えた”なんて言っていれば、見えた先以下の人生しかありません。
どうせ、人生の先を見るなら、希望ある人生を見たほうが良いのではないでしょうか。
もちろん、無謀な夢を見ろという話ではありません。
人生の先を見るとは、ある意味、人生の目標設定なのです。
”先が見えた人生”というのは、低いか無難な目標設定をしてしまっているということです。
希望ある人生を見るとは、その目標設定を、実現が困難かもしれない、でも、不可能ではないものにしろということです。
人間なんて、そんなにできたものではありません。
目標設定をして、目標に到達できる人なんてそれほど多くはありません。
大抵の場合、設定した目標以下の地点までしか到達できないのです。
低い、あるいは無難な目標設定をしては、辿り着ける地点なんてそれに見合ったものでしかないのです。
だからこそ、希望ある人生を見るほうが良いのです。
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