今日は成人の日ですね。
一部の若者が、浮かれて暴れる姿を目にすることが風物詩となっていますが、今年もきっとそんな姿をテレビ等で見かけることでしょう。
成人の日の趣旨は、「大人になったことを自覚し、みずから生きぬこうとする青年を祝いはげます」というもののようですが、大人って何でしょうね。
大人とは?
おとな【大人】
① 十分に成長して、一人前になった人。成人。 ⇔ こども 「 -になる」
② 考え方や態度が一人前であること。青少年が老成していること。 「年は若いが、なかなか-だ」 「君の考えもだいぶ-になったね」
③ 元服をすませた人。成人。 「 -になり給ひて後は、ありしやうに、御簾みすの内にも入れ給はず/源氏 桐壺」
『大辞林 第三版』(三省堂)より引用
大人とは上記のような意味ですが、読んでもよくわからないというのが、正直なところです。というのも、「十分に成長」「一人前」という言葉が出てきますが、その基準が曖昧だからです。
何をもって、「十分に成長」したと見なすのか、何をもって「一人前」と見なすのか、明確な基準がありません。
年齢や経済的自立等の基準もありますが、それらだけで大人と見なすことにも疑問が残ります。
年齢という基準で見ても、20歳(数年後には18歳に引き下げられるようですが)になったからといって、身体は十分に成長しているかもしれませんが、考え方や態度が一人前であるかどうかは、人それぞれです。
経済的に自立しているという基準で見ても、経済的には自立していても、その言動が大人であるとは限りません。
他の基準も同じです。
その基準を満たしていたとしても、その人が大人かどうかはわからないのです。
自分より年齢が上の人と話していても、その人を稚拙だなと感じた経験がある人も多いと思います。
大人かどうかを、判断するのは、他人です。
自分で自分を大人だと思っていても、他者が大人と認めなければ、自分が勝手に大人だと思っているだけで、大人とは言えないでしょうし、大人として扱われることもないでしょう。
結局、大人かどうかは、、世間の価値観、もっと言えば、個人の価値観に依存し、それにより判断されるものなのだと言えます。
世間の価値観や、個人の価値観なんて、流動的なものですので、大人の基準も変わっていくのです。
大人なんて、あってないようなものなのかもしれません。
大人になるとは?
大人の基準が不明確なのですから、大人になるということも、どういうことかよくわからないものでしょう。
世間や、個人の価値観で大人かどうか判断されるのですから、世間や個人の大人という価値観に合わせた考え方や、言動ができるようになることが、大人になるということなのかもしれません。
もちろん、社会の中で生きているのですから、上記のような意味で大人になるということは、不可欠なことだとは思います。
しかし、世間や他人の価値観に合わせて生きるというのは、時に息苦しく、自分を見失いがちになります。
世間や他人の価値観に合わせるということは、自分を押し殺す必要もあるからです。
そうやって、世間や他人の価値観にばかり合わせているうちに、自分を見失って、自分らしさを求めるようになるのかもしれません。
子どもでいていいわけではない
上記のように書くと、子どものままでもいいじゃないかという意見がでてきそうですが、そうは思いません。
上でも述べましたが、社会の中で生きている以上、ある程度、世間や他人の価値観にあわせることも必要だからです。
いつまでも、子どものままでいて、いいわけではありません。
しかし、そのせいで、自分を見失ったとか、自分らしさがわからなくなったというのも違うと思います。
そんな人は、もともと、世間や他人の価値観に依存して、見失う自分らしさなんて持っていなかったのだと思います。
自分らしさがないことを、世間や他人のせいにする子どもであってはいけません。
世間や他人の価値観と、自分との間で折り合いをつける、ということが大人になるということなのかもしれませんね。
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