負けようとしない人々

負けようとしない人々 雑感

世の中には勝ちにこだわるというよりかは、負けを認めない、負けないことにこだわる人々が多い。

勝ち負けにこだわる人々

勝ち負けを測る一つの指標として、年収や学歴がある。
高い年収を得ている人や、大企業・有名企業に就職しやすい高学歴の人が勝ち組、低い年収や高学歴の人に比べれば就職先が限られてしまう低学歴の人が負け組といった類のものだ。

一方で、最近では、この勝ち負けを一つの指標で測ることを否定する論調もある。
年収が高いから幸せとは限らないとか、高学歴の人が仕事ができるわけではないといったものだ。

これは、その通りだと思う。ここでも、人を測る指標は一つではないこと、人の多様性を受け入れるべきということは何度か書いてきている。

しかし、この勝ち負けを一つの指標で測ることを否定する論調が、負けを認めない人の言い訳に使われているように思えてならない。年収ではどう頑張っても勝てないから、他の価値観を持ってきて、負けていないということをアピールすることで、年収で負けていることを帳消しにしようというやり方だ。

数でみると、高年収や高学歴などでいわゆる勝ち組と言われる人のほうが数は少ない。
また、ある程度勝ち組と言えるような人でも、上を見ればきりがない。
勝ちを目指すよりは、負けないことを目指すほうがある意味容易なのだ。

これまでは、一つの指標で人を測ることが蔓延していたし、今でも根強く残っている。それは、負けと言われる人々の間にもだ。
一つの指標で負けることが、全ての負けに置き換わっているから、負けないことにこだわってしまうのだろう。

結局、勝ち組だろうと負け組だろうと、多くの人が勝ち負けにこだわってしまっている。

素直に負けて、こだわりを捨てたほうがよいのでは…

最近では、学校の運動会の徒競走などで、順位をつけないということについての議論を見かけることもある(実際には都市伝説レベルで、そのような学校は多くはないようである)。

順位をつけない派の意見としては、順位をつける=優劣をつけることになり、負けた子が劣等感を抱いたり、序列ができるというもののようである。

順位をつける派の意見は、社会に出たら競争なのだから、子供のうちからそれを体験させるというもののようだ。

両者の意見の是非はわからないが、どちらも勝ち負けにこだわっていると言える。

別に順位なんてつければいいのだ。
そして、1位になった子には、走るのが一番速かったのだからそれを褒めてあげればいい。そして、走るという点においては優れているが、全てにおいて優れているわけではないこと、他の子も別の優れた点があるのだから、順位が低いからと言って馬鹿にしたりしてはいけないことを教えればいい。

順位が低かった子には、走ることに関しては1位の子が優れていたのだから、それを認め褒めること、だからといって全てにおいて、劣っているわけではないのだから、劣等感を抱く必要などないことを教えればいい。

一つの順位が人間の優劣を決めるものではないこと、突き詰めて考えると人間に優劣をつけることなどできないことを教えてあげればいいだけのことである。

人に勝ち負けなどない。ある一面では勝っていても、ある一面では負けているそれでいい。
それを当たり前のこととして受け入れるということを教えればいい。

負けは負けでもっと素直に認め、こだわらないほうが良い。
別の価値観を持ってきて負けてないと自分に言い聞かせても惨めになる。
ある一つの指標においては負けているが、別に人として劣っているわけではない。
そもそも、人の優劣など測れないのだから、勝ち負けにこだわるのを止めることが、本当の意味で、人を測る指標は一つではないこと、人の多様性を受け入れることにつながるのではないでしょうか。
そうすれば、人を否定せず、尊重しあえる世の中ができるのではないかと思う。
もっと単純に、皆が余計な苦を味わわずに、楽に生きられるのではないかと思うのです。

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