罰が当たったなんて考えすぎてはいけません

罰が当たったなんて考えすぎてはいけません 雑感

何か不運なことや悪い事があった時に、”何か悪い事をしたからかな”なんて考えてしまうことってあるかもしれません。

でも、考えすぎは良くありません。

 

罰が当たる

ばちあたり【罰当たり・罰当り】
( 名 ・形動 ) [文] ナリ 
罰が当たるのが当然と思われること。またそのようなさまや人。 「 -な行い」 「この-め」

罰が当たるとは、応報的に悪い事をすれば、それに対する罰を受けるということです。

これが真実かどうかは、わかりません。

ろくなことをしていないのに、罰が当たっていないように見える人もいれば、真っ当に生きているのに、悪い事ばかりという人もいることでしょう。

罰が当たるということが、本当にあるかどうかを証明することもできません。

あるかないかもわからないものを、あるかのように思っているのは、教育や日本的な宗教観によるのかもしれません。

いずれにせよ、罰が当たったと思っているのは自分です。

人は、自分の経験などによって形成された価値観や思考パターンをもとに、自分の人生や自分の身の回りで起こった出来事を、物語的に繋げる傾向があります。

その繋げられたものに実際の因果関係なんてなくてもです。

そうすることで、理由付けができ、物事を受け入れやすくするのです。

不運なこと、悪いことがあった時も、”あの時、悪い事をしたから罰が当たったのだ”と因果関係のないものを結び付けることで、納得させようとするのです。

罰が当たるというのは、一つの思想であるともいえますし、悪い事を受け入れ、折り合いを付けるための機能であるともいえます。

 

罰が当たるかどうかなんてわからない

罰が当たったと思っているのも、思わされているのも自分です。

不運なこと、悪い事があった時に、必要以上に自責の念にかられてはいけません。

たまに、別に悪い事でもなんでもないことまで、”あれが悪かった”なんて思っている人がいますが、人間、生きていれば、思いがけず、他者に迷惑をかけてしまうことだってありますし、良いこと悪いことの判断は人それぞれです。

罰が当たるかどうかなんてわからないのですから、何でもかんでも悪い事にしてしまってはいけません。

ちゃんと生きているのなら、不運なこと、悪い事があっても、”今日はついてなかった”ぐらいに思っておけばいいと思います。

あれが悪かった、これが悪かったと思ってばかりいては、これからの人生、罰だらけの人生になってしまいます。

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