世の中には、不幸自慢等をして、可哀想だと思ってもらいたいと考えているとしか思えないような人がいます。
気づかないこともありますが、可哀想だと思ってもらいたい人というのは、確実に存在しています。
可哀想だと思ってもらいたい理由
同情されたい、かまってほしい、注目を集めたい等、理由は様々です。
共通して言えるのは、それが、その人の対人関係の在り方ということです。
不幸自慢をして、”同情して優しくされた”、”かまってくれて気を使ってくれた”、”皆が可哀想な自分に注目してくれた”などといった、経験を持っており、それが本人にとっては、人との関りをもてた成功体験になっているのです。
そういう人は、人と関わる際に、可哀想な自分であろうとします。
可哀想な自分であれば人と人間関係を築けるからです。
こういった人は、それほど親しくない人にでも、可哀想な自分を自己開示します。
例えば、”自分は精神科にかかっていて、安定剤を服用している”と言ったようなことを、すぐにカミングアウトしたりするのです。
通常、こういった、人にあらぬ誤解を与えてしまう可能性のあることは、簡単に人に話したりしません。
ある程度親しい人や、伝える必要がある人のみ伝え、その他の人には、自分から積極的に伝えるということはしないというのが一般的でしょう。
しかし、可哀想と思ってもらいたい人は、すぐにこういった話をするのです。
そうやって、可哀想な自分であることでしか、人と関われないのです。
可哀想だと思ってもらいたい人との関わり
可哀想だと思ってもらいたい人との関わり方は難しいところがあります。
普通はしないだろうというような、可哀想な自分話をされて、反応に困るということもあれば、あまり反応しすぎてもいけないと気を使って、反応しないでいると、可哀想な自分話がエスカレートすることもあります。
かといって、可哀想な自分話を聞くと、”この人は可哀想な自分話を聞いてくれ、受け入れていくれる人だ”と誤解され、勝手に親しみを持たれてしまうことだってあります。
可哀想な自分話を、誰にでも簡単にするという、一般とは少しずれた感覚を持っている人ですので、関わる際の距離感にこちらは戸惑うのです。
人の不幸話を聞くのが好きな人もいますので、そういう人は積極的に親しくすればいいと思いますが、たいして親しくもない人の、不幸自慢や可哀想な自分話を聞きたい人はそう多くないと思います。
可哀想な自分話は、面白い話でも、楽しい話でもないのですから、親しくない人の、そんな話を進んで聞きたい人はいないのではないでしょうか。
可哀想だと思ってもらいたい人にはなるな
可哀想だと思われるような話をされた時、その人をぞんざいに扱うということはできないという人が多いと思います。
だからこそ、彼らは可哀想だと思ってもらいたいのです。
しかし、ぞんざいには扱われないかもしれませんが、腹の底では、悪い意味での哀れみしかもたれないことでしょう。
そして、可哀想だと思ってもらいたい人との関りを、面倒くさいと感じているのです。
そんな人になりたくないのであれば、可哀想だと思ってもらいたい人にはならないほうが良いかと思います。
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