やりたい人がやりたいことをやればいいという人がいます。
これが間違っているとは言いません。
ある意味、正しい正論なのだとは思いますが、これは目的を持った組織や集団の場、特に教育等の場では絶対に持ち出してはいけない理屈だと思います。
やりたい人がやりたいことをやるとどうなるか?
やりたい人がやりたいことをやって起こるのは、秩序の崩壊です。
そして、秩序が崩壊した結果、組織や集団はつぶれるか、一部の人のみが利益を享受し、他の人が不利益を被る、我慢を強いられるという状況が生まれることによって組織や集団が維持されます。
例えば、会社という組織で、社員全てが、やりたい人がやりたいことをやった場合、会社の利益を上げるという目的が達成される可能性はかなり低いと言えます。
もちろん、社員を全てをやりたいことが異なる人で構成すれば話は別ですが、複数人が集まれば、そうなることはほぼありません。
やりたいことが被る人もたくさんでてきます。
そして、誰もやりたがる人がいないということも必ず出てくるのです。
会社が利益をあげるためには全てが必要な仕事です。
会社でやりたい人がやりたいことをやれば、同じ仕事を複数人がこなし、誰もしない仕事がでてくるということです。
必要な仕事が成されないのに、会社が利益をあげることができるでしょうか。
できるはずもありません。
こうして、その会社は潰れます。
会社に関わらず、これは、全ての目的を持った集団なり組織なりに当てはまることです。
集団なり、組織なりが維持されているのは、やりたい人がやりたいことをやればいいと自分勝手に振舞う人がいる一方で、誰もやりたくないことを、我慢してきちんとやってくれる人がいるからだということを忘れてはいけません。
教育の場でやりたい人がやりたいことをやるという理屈を持ち出してはいけない理由
教育というのは、子どもだけでなく大人になっても受けるものです。
学校教育にはじまり、就職してからも、スキルアップ等のために、講習や研修を受ける機会もあると思います。
ここでは、これら全てを教育といいます。
教育とは、それを受けに来た人全てに、平等かつ均等に与えられなければなりません。
それぞれの目的や、やる気は関係ありません。
教える側は平等かつ均等に教育を与えなければなりません。
お金なり、時間なり、それなりの対価を支払って来ているのですから、同じ対価を支払って来ている人には、同じだけの教育を与えなければならないのです。
それにも関わらず、教育が平等かつ均等に与えられることはありません。
教える側は、自分の無能さ故、平等かつ均等に教育を与えることができないにも関わらず、本人のやる気がどうのと言い訳をします。
例えば、子供の学校教育の場合、主体性を育てるために、立候補により役割を与えるということがあります。
クラス委員長などは、その最たるものかと思いますが、毎年、同じ人がクラス委員長をしているというのを見たことがあるの人は多いはずです。
本当は、他にもクラス委員長をしたい人がいたかもしれません。
その子は、気を使って、遠慮して、クラス委員長に立候補できなかっただけかもしれません。
それにも関わらず、立候補などと言う責任放棄による教育を与えたため、一部の人にはクラス委員長の経験という教育が与えられ、その他の人のはクラス委員長の経験という教育が与えなれなかったのです。
クラス委員長など、強制で順番に全ての生徒にやらせればいいのです。
もちろんその役割をこなせない生徒もいるでしょうが、それをフォローし、できるようにするのが教師の役目です。
立候補などというのは、そのあとで用いられるべきものなのです。
やりたい人がやりたいことをやればいいと主張する人間は、自分勝手なクズ人間しかいない
やりたい人がやりたいことをやればいいという人は、単に自分がやりたいことをやるために、他人にもそれを押し付けている自分勝手なクズ人間でしかありません。
この主張をしている人で、他人に気を使える人を見たことがありません。
他人に気を使っているように見えても、自分の都合の良いように事を運ぶために、つまり、自分がやりたいことをやってもいいという状況を作るために、自分の都合の良い他人に気を使うふりをして、やりたいことをやっていいですよなどと言って、やりたいことをやらせているのです。
こういう人間は、自分の都合の悪い人にはやりたいことをやっていいですよなどとは絶対に言いません。
自分が良ければ他人は我慢してもいいということなのでしょう。
視野が狭く、やりたいことを我慢している人にはまったく気づいていない愚か者なのかもしれません。
こういう人間に限って、仕事で独立したいとか、起業したいなどと言っていますが、まず無理でしょう。
こんな人間に人はついていきません。
自分勝手な愚か者ほど、叶わぬ夢を見るものなのでしょうね。