今の世の中、人を疑うということが、蔓延しているように感じます。
疑うのは勝手ですが、疑うということは時に人を傷つけるものです。
蔓延する疑い
うたがう【疑う】
( 動ワ五[ハ四] )
① 得られた結果・結論が正しくないのではないかと思う。うたぐる。 「証人の証言を-・う」 「この調査結果には-・う余地はない」
② その人が悪いことをしたのではないかと思う。うたぐる。 「私は犯人ではないかと-・われているらしい」 「父は花瓶を割ったのは次郎ではないかと-・っている」
③ はっきりしないことについて、よくない方に、否定的に考える。 「誠意を-・う」 「これでは頭の程度が-・われる」 「私はこの患者について赤痢を-・っています」 「 - ・ひながらも念仏すれば往生す/徒然 39」
[可能] うたがえる
[慣用] 耳を- ・ 目を-
『大辞林 第三版』(三省堂)より引用
人は何故、人を疑うのでしょうか。
それは、ひとえに自分の身を守るためということに尽きるのではないかと思います。
誰もが、他者に疑いを持って生きています。
他者を疑うことで、自分には責任がないと主張するためです。
他者を疑うことで、暗に他者の所為であると主張するためです。
事実がどうかなんて関係ありません。
ほとんどの人が、そんな真っ当な正義感なんて持ち合わせていません。
自分の責任でさえなければ、あとはどうでもいいのです。
そして、自分が損を被ないためにも、他者を疑います。
他者を信じては、騙されれば損をします。
誰もが、他者の利益なんて考えないくせに、自分は損はしたくないのです。
だから、リスクを回避するため、他者を疑います。
自分さえ損をしなければ、あとはどうでもいいのです。
自分を守るために、他者を信じ、他者と協力するのではなく、他者を疑うということが主流となっているようです。
だから、こんなにも他者を疑う人が多いのでしょう。
個人主義といえばそうなのかもしれません。
疑いは人を傷つける
誰もが他者を当たり前のように疑いますが、疑いは人を傷つけます。
疑うという行為は、無実の罪をなすりつけるということと、ほぼ同一の行為です。
あなたが、他者から疑われれば、どう思うでしょうか。
大した人生ではないかもしれませんが、今まで、真面目に、一生懸命、不正なことはせずに生きてきたのです。
それにも関わらず、疑いを向けられたら、傷つかずにはいられないのではないでしょうか。
表面的にはどう見えようと、それはあなたの見方に過ぎず、それが事実でも正しいわけでもないのです。
他者なんて、どんなに関わってもその程度しか理解できません。
そんな他者を闇雲に疑って傷つけてもいいのでしょうか。
誰でも信用しろとは言いませんが、何でもかんでも疑えばいいというものでもないような気がします。