最近、子どもの虐待に関するニュース等を目にする機会が多いように感じている。
その原因等を考えてみると、正しいかどうかはわからないが、何となくそうなのではないかと思うところがあったので書いてみようと思う。
希薄な現実感
世の中には、血が繋がっていなくても、我が子として育てている真っ当な親御さんも多いことと思う。
一方で、血が繋がっているにも関わらず、虐待をしてニュースになるような親もいる。
その事実を見れば、血の繋がり云々はそれほど重要なのではないのかもしれない。
虐待をする親には、原因、理由など様々な要因があるのかもしれない。
専門的なことはわからないが、虐待をするような親に共通しているのは現実感の希薄さではないかと感じている。
自分に子がいる、自分が子の親である、自分が子を育てているなどといった、我が子に対する現実感が希薄なのではないかと思う。
子育てというのはきっと大変なことなのだと思う。
時には、上手くいかず、イライラさせられるようなこともあるのだろう。
親だって人間なのだから、そんな時には、大声で怒鳴ってしまったり、いうことを聞かなければ、思わず手が出そうになることだってあるのだと思う。
そこで、グッとこらえるのが我が子を持つ親なのだろうが、現実感が希薄だと、それができないのではないだろうか。
子どもや子育てといったことにリアリティがなく、そして、子が生きている一人の人間であるということをリアルに感じられていないのではないのだろうかと思う。
ともすれば、子どもを”もの”程度にしか捉えられていないので、虐待などといった行為が行われるのではないだろうか。
当事者意識の欠如
子に対する現実感が希薄だと、当然、当事者意識も欠如する。
それは、責任と主体性を持って子を育てるという当事者意識であり、子に対して、誰でもなく、自分が育てなければならないという当事者意識だ。
基本的には、親が子を育てるが、虐待をする親は、自分が子を育てる、育てなければならないという当事者意識が欠如しているように感じる。
虐待をする親は、自分が育てなくても、誰かが育ててくれると、自分が子育ての当事者ではないと思っている(無意識的にかもしれない)のではないだろうか。
だから、虐待などといった行為に及んでも、誰かがちゃんとしてくれるから、大丈夫などと心のどこかで思ってさえいるのかもしれない。
希薄な現実感と当事者意識の欠如
子どもの虐待には、親の親としての希薄な現実感と当事者意識の欠如が関係しているのではないかとふと感じたので書いてみた。
これが、正しいとも絶対だとも思っていないが、個人的にはそう感じるというだけのことだ。
希薄な現実感と当事者意識の欠如というのは子の虐待に限ったことではない。
例えば、仕事等でも、現実感が希薄で当事者意識が欠如していると、関与度が薄く感じられ、それなりに仕事をしていても、どこか物足りないものを感じるものだ。
なかなか難しいのかもしれないが、自分が関与するものには、意識的に現実感と当事者意識を持って関わるほうが良いのかもしれない。