”やましいことがなければ、堂々としていればいい。堂々とできないのは、やましいことがあるからだ”などということがあります。
堂々とできないのは、やましいからではない
私の知人に、いわゆる職業訓練というものを受講していた人がいます。
その知人は、訓練に講師として来ていた方の勤務先に、講師の方に口利きをしてもらって、就職したそうです。
形式的な面接はあったようですが、面接とは名ばかりで、選考されていたわけではなく、実際は顔合わせ的なものだったそうです。
当時は不景気だったということもあり、他の受講生が就職活動をする中で、”自分はこんなに簡単に就職が決まっていいのか”とやましい気持ちがあったそうです。
知人の訓練受講の様子を見て、その講師の人も口利きをしたのでしょうから、別にやましいことなどないのではないかと思いますが、知人はやましい気持ちがあるというふりをしていました。
ふりをしていたというのは、知人が本当にやましいと感じているとは思えなかったからです。
やましいというよりは、講師の口利きで就職を決めたことに対する周囲の妬み嫉みを恐れて、自分が講師の方に取り入って就職を決めた、程度の低い人間だと見なされたくなくて、やましいと感じているふりをして、人格者ぶりたかっただけなのではないかと思えてならなかったのです。
知人が堂々とできなかったのは、やましいなどという良心からではなく、自分を守るために堂々としなかっただけなのではないかと思います。
やましいことがあろうとなかろうと堂々としていればいい
やましいことがあろうとなかろうと、堂々としていればいいのです。
堂々とするということは、自分の選択に責任を持つということです。
自分の選択に責任を持つということは、やましいことがあろうとなかろうと、自分の選択に対する他者からの非難も甘んじて受け入れるということです。
やましいと感じていないにも関わらず、やましいと感じているふりをして、他者の非難から逃れようとするほうが、器の小さい人間だと言わざるをえません。
どんなことであろうと、それは自分が選んだことです。
他者から非難されることなんて、その選択をする前から予想できたことです。
それも含めて選択をしたのですから、四の五の言い訳せず、堂々としていればいいのです。