くすぶり人の戯言

お疲れ様。もういいよ。

お疲れ様。もういいよ。

誰もが言ってほしい言葉

「お疲れ様。もういいよ。」は、私が言ってほしい言葉であり、この言葉を言われたい人が多いのではないかと思う言葉です。

ここでの「もういいよ」は、例えばカップルが喧嘩をして、埒が明かないので諦めとして言う”もういいよ”ではありません。

「お疲れ様。本当によく頑張ったね」という意味を込めて、「もう頑張らなくていいよ」「もう無理しなくていいよ」「もう嫌な思いをしなくていいよ」「もう我慢しなくていいよ」なとど、慈愛を持って言ってほしいのです。

 

いつも気を張って生きている

何故、こんな言葉を言ってほしいのかと考えたとき、いつも気を張って生きていて、心休まることがないからではないかと思いました。

誰もがいつも何かに追われ、責められ、そこから脱落すれば、人並みには生きられないという恐怖心を持って生きている。

人並みに生きるために、何かにしがみついて、振り落とされないようにいつも気を張っていて心が休まる時がない。

仕事や学校が休みの時でも、その不安は頭の片隅にあって、休んでいても、心はちっとも休んでいない。

何者かにあてがわれた、不安感や恐怖心に支配され、”頑張ること”、”無理をすること”、”嫌な思いをすること”、”我慢すること”などを強要される。

これまでずっと気を張って生きてきて、もう限界と思っても、まだ大丈夫と言い聞かせて、今にも切れそうな緊張の糸を、いっその事、早く切れてしまってくれと思いながら、切れないようにつぎはぎ補修して、だましだましここまで生きてきている。

気持ち的には、とっくに限界をこえているのに、緊張の糸を切れば、待っているのは脱落、転落なのだから、気を張らずにはいられないのでしょう。

 

許してほしい

皆、本当はもう許してほしいのだと思う。
許してもらって、楽になりたいのだ。

誰に何を許してほしいのかは、よくわからないが、「もう頑張らなくていいよ」「もう無理しなくていいよ」「もう嫌な思いをしなくていいよ」「もう我慢しなくていいよ」と「よく頑張ったね、お疲れ様。」と言って、それまで気を張って生きてきたことを労い、もうそんな風な生き方はしなくていいよと、許してほしいのだ。

自分では、不安と恐怖で許してあげることはできないから、誰でもいいので、誰かに許してほしいのだ。

でも、誰も許してはくれない。

誰もあなたの人生の責任なんて持ちたくないからだ。

許して、あなたが脱落し、転落したって助ける気なんてないし、こちらの所為にされたって困るのだ。

だから、誰も許してくれない。

だから、言ってほしいと期待したって、「もう頑張らなくていいよ」「もう無理しなくていいよ」「もう嫌な思いをしなくていいよ」「もう我慢しなくていいよ」と「よく頑張ったね、お疲れ様。」なんて誰も言ってはくれないのだ。

 

楽になろう

脱落し、転落してもいいなら、いくらでも「よく頑張ったね、お疲れ様。」「もういいよ、もう大丈夫だと」と言ってあげたいと思います。

ここまで生きてくるのだって、そんなに楽ではなかったはずです。
だから、「もういいんです」。
自分を苦しめるくらいなら、これからは楽に楽しく生きれるよう、許してあげます。

脱落し、転落したって別にどうってことはありません。
例えば、世間一般で言われているような”負け組”になる程度のことです。
”負け組”なんて、世間が勝手に言っているだけのことで、”負け組”だから、不幸だなんてことはありません。
価値観の一つ、ものの見方の一つに過ぎないのです。

脱落、転落と思っていることが、実は脱落でも、転落でもないことだってあります。

我々が持っている、よくわからない不安、恐怖、価値観は、それが正しいと、押し付けられ、刷り込まれたものに他なりません。
必ずしもそれが、自分にとって正しいものではないのです。

そんなものに縛られたって、楽しい人生にも、つまった人生にもなりません。

時には勇気をもって、楽になることも必要なのです。

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