くすぶり人の戯言

試練の時?

試練の時?

生きていると、起こってほしくないことばかりが、連続して起こることがあります。

 

負の引き寄せ?

生きていると、自分が”こうなったら嫌だな”と思うことが、まるで預言、予知したかのように起こることがあります。

そして、”次はこうなったら最悪だ”と思うことが、続いて起こるのです。

まるで、神様が自分の心を読み取って、自分が嫌な方、嫌な方への導いているのではないかとさえ感じてしまいます。

こんなことを言うと、人によっては、自分が嫌だなと思うこと自体が、その嫌なことを引き寄せたなんていう人もいるかもしれません。

そう言われると、確かにそうなのかもしれません。

しかし、自分の嫌だなという思いが引き寄せたという証拠も、神様が自分が嫌だと思っている方へ導いたという根拠もありません。

自分が嫌だなと思うことが連続して起こっても、それは単なる偶然でしかありません。

そのこと自体に何か特別な意味があるわけではなく、たまたま起こったことであって、それ以上でも、それ以下でもないのです。

 

偶然の出来事に意味づけをする

ではなぜ、偶然起こった、嫌なことが連続して起こるという出来事に、”自分の思いがそれを引き寄せた”とか、”神様が導いた”などと思ったりするのでしょうか?

それは、人が常に意味づけを行っているからです。

人が生きるとは、生物として見れば、ただ単に生きているだけという、他の生物と変わらないものです。

しかし、人は、自分の物語の中で生きたがります。

あらゆる出来事に、意味づけを行い、本来は関係のないことを関連付けて、自分の人生物語を創作し、自分の人生が意味あるもの、価値あるものだと思いたいのです。

そして、意味づけを行うことで、自分にとって嫌だと思う出来事が起こった時に、それを意味ある出来事、価値ある出来事とすることで、嫌なことを受容し乗り越えようとするのです。

以前、「意味付け、理由が、活力になる」ということについて書きましたが、嫌な出来事に意味づけを行うことで、それを乗り越える活力にしようとするのです。

 

どんな意味づけだってできる

自分が嫌だなと思っていることが起こったとしても、それは、偶然起こったことに過ぎません。

そして、それは、重要な意味を持つものでも、特別な価値を持つものでもありません。

それに、重要な意味を持たせ、特別な価値を与えているのはあなた自身です。

重要な意味を持たせ、特別な価値を与えているのはあなた自身なのですから、それを、無意味で無価値なものとするのもあなた自身です。

嫌なことが連続して起こったことで、”自分の人生そんなもの”と悲観するのも、”成長のための試練の時”と捉えるのも、あなた次第です。

その出来事自体には何の意味もありません。

何の意味もありませんが、あなた次第でどんな意味づけも可能です。

人は、偶然起こった出来事に、必要以上に意味を与えすぎることがあります。

そのせいで、自分で苦しくなっている人も少なくありません。

どんな意味づけも、あなたの好きにできるのですから、自分の人生がより良いものになるための意味づけをしていただければと思います。

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