”やる気”というものが評価対象とされることが多々ある。
このことに少々疑問を感じている。
やる気だけでは意味がない
”やる気”が結果に影響を及ぼすこともあるので、”やる気”が評価対象となることは理解できないわけではない。
しかし、結果が求められる場合には、”やる気”だけでは意味がない。
結果が求められる場合には、”やる気”があろうとなかろうと、結果を出すことが必要なのだ。
いくら”やる気”があっても、結果が出せなければ、その人は無能だし、”やる気”が見えなくても、結果が出せれば、その人は有能なのだ。
例えば、仕事では直接的・間接的に関わらず、会社に利益をもたらすことが、被雇用者には求められる。
そして、その対価として給料が支払われるのだ。
つまりは、仕事においては、”やる気”など無意味なのだ。
”やる気”があろうとなかろうと、利益という結果を出してくれることが、最も重要なのだ。
それにも関わらず、仕事では”やる気”が重視されることが多々ある。
酷い場合だと、”やる気”がある(実際にはどうかわからないが…)ように見える、見せているだけで、大した結果を出していない人が、”やる気”がない、ないように見えるだけで、大きな結果を出している人よりも評価されている場合がある。
そんな会社では、結果が出せない”やる気がある”アピールばかりしている人が幅を利かせ、”やる気がない”ように見える、成果を上げている社員はすぐに退職をしている。
そして、社内は、やる気アピールに注力する人ばかりになり、グダグダ感が溢れるようになるのだ。
結局、”やる気”アピールばかりしている人は、それしか自分が評価される武器がない、何もできない人なのだろう。
私は大した器を持ち合わせていない人間なので、”やる気”アピールばかりで、結果を出せない無能な人が大きな顔をしているのを見ると、見苦しさを感じずにはいれない。
やる気だけの人は、他者のやる気を非難する
”やる気”のある人(ここでは、やる気しかない人、やる気アピールばかりする人のこと)は、他者のやる気を非難したがる。
「あいつはやる気がない」といったようにだ。
これは、つまるところ、”やる気”しかアピールできるものがないので、他者の”やる気”のなさを主張して、「自分はこんなにもやる気があるんですよ」と自分の評価を上げようとする行為なのだ。
目も当てられないみっともなさだと感じずにはいられないのだが、こういう人が一定数いることも事実だ。
結果を出すことが必要な場面では、こういう人には決してだまされないよう、物事を見極める目を養いたいものだと思う。
やる気なんて見えない
”やる気”というものは、形があるものでも、目に見えるものでもない。
例えば、積極的に行動している人が”やる気”があると見なされがちだが、行動が消極的だからといって、”やる気”がないということにはならない。
単に物事に対するアプローチの方法が異なるだけかもしれないからだ。
積極的に行動するだけで、言われたことも教えられたことも満足にできない人をやる気があると言えるだろうか。
行動が消極的というだけで、言われたことや教えられたことを、きっちりとできる人のことをやる気がないと言えるだろうか。
結果に関わらず、積極的な行動をする人をやる気がある、消極的な行動をする人をやる気がないと見なす人もいれば、行動の積極性・消極性に関わらず、言われたことも教えられたことも満足にできない人をやる気がない、言われたことや教えられたことを、きっちりとできる人のことをやる気があると見なす人もいるだろう。
結局のところ、やる気の評価なんて、評価者の主観によって異なってくるのだ。
結果を求められる場面で、やる気などという個人の主観によって評価が異なるものを、評価対象にしてはいけない。
結果を求められる場面では、結果のみを評価対象とすべきだ。
やる気などというものばかりに頼っていては、いつか何の結果も出せなくなってしまうことだろう。