過程が異なっても、結果という事実は変わらない
例えば、大事な商談がある日に会社を休んだ人がいて、そのせいで商談がまとまらなかったとしよう。
Aは、急病で会社を休んだ。
Bは、サボって会社を休んだ。
多くの人が、Aは仕方がない、Bはふざけるなという感想を持つのではないだろうか。
それは、Aには急病という同情すべき理由があり、Bには一般的価値観では受け入れられない理由しかないという、休みに至る過程が異なるからだ。
しかし、結果を見てみるとどうであろうか。
両者とも会社を休んだという事実は同じであり、そのせいで商談がまとまらなかったという事実も同じなのだ。
例えば、大事な商談をまとめて、会社に莫大な利益をもたらした社員がいたとしよう。
Cは、事前準備をしっかりとして、商談をまとめた。
Dは、事前準備もたいしてしないで、商談をまとめた。
Cは頑張ったのだから結果が出せて当然、結果がでて良かった、Dは運が良かっただけという感想を持つ人が多いのではないだろうか。
しかし、過程は異なっていても、結果を見れば、両者とも商談をまとめたという事実は同じなのだ。
過程が異なっていても、結果的に事実は何もかわらないのである。
このように、過程が異なっていても、でた結果、事実は何もかわらないということは往々にしてある。
結果という事実が同じなら、過程は言い訳にしかならない
結局のところ、結果という事実が同じであれば、それに至る過程は言い訳にしかならない。
そして、周囲の人間がその結果を受け入れる理由づけにしかならないのである。
人は自分が納得したいから、結果と同等以上に、過程を重視するのだ。
上記の例で言えば、Aは急病というのを言い訳として、周囲からの非難を回避しようとし、周囲もまた、急病だから仕方がないと納得しようとするのである。
Bはサボったと言い訳をしなかったので、周囲からふざけるなと非難され、周囲からの理解も得られないのである。
Cは事前準備をしっかりしたと言い訳をして、周囲の羨望から生まれる、嫉妬を回避し、周囲もまた、事前準備を頑張っていたからと、羨望を抑え、Cがだした結果を受け入れる。
Dは事前準備をせず、言い訳を用意しなかったので、周囲から羨望、嫉妬を受け、運が良かっただけと非難され、周囲もまた、運が良かっただけで、実力ではないと、Dのだした結果を否定するのである。
出した結果は同じなのに、過程という言い訳によって、評価すら変わってしまうのだ。
結果が同じなら、それに至る過程は関係ない
結果が同じなら、それに至る過程は関係ない。
結果が同じなのだから、それに至る過程がいかようであっても、等しく評価されるべきではないだろうか。
世の中、結果が全てではないのかもしれないが、結果がないものに価値がないと判断されることも多い。
例えば、勉強をどんなに頑張ろうが、一流大学に合格し、卒業しなければ、大企業では価値がないと判断され、採用試験すらまともに受けられない。
かたや、勉強をたいして頑張っていなくても、一流大学に合格し、卒業すれば、それだけで大企業では採用試験を受ける価値があると認められる。
そういう事実がある以上、過程などという言い訳ばかりに目を向けず、結果という事実を等しく評価し、結果をだすことに貪欲である姿勢を育むことが必要なのではないだろうか。