人は、物事を、正否、善悪、白か黒かといったように、二元論的に捉えがちです。
しかし、物事を見る中心点が変われば、正否、善悪、白黒も変わってきます。
人は、自分を中心に物事を捉える
人は、自分を中心に物事を捉える、というよりは、自分を中心にしか物事を捉えることができないと思います。
人は、他人にはなれません。
いくら、他人の物事の捉え方を見聞きし、それを真似たところで、完全に他人と同じ物事の捉え方はできません。
それは、物事の捉え方というのは、これまで生きてきた、体験を基に形成されているからです。
他人の物事の捉え方を真似ようとも、自分は自分でしかないのですから、そこには、自分の主観が多少なりとも必ず含まれます。
だから、完全に他人と同じ物事の捉え方はできないのです。
完全に一致する、体験をもって生きてきた二人というのは、存在するはずもなく、物事の捉え方は、自分のものが、自分にとっては唯一のものなのです。
そのため、人は、自分を中心に物事を捉えるし、自分を中心にしか物事を捉えることができないのです。
中心点が変われば正否も変わる
例えば、一つの部屋に、何人かの人がいたとします。
一つの部屋であっても、人によって見える景色は異なります。
例えば、対角線上に二人の人AとBが立っていたとして、AとBが見る景色は同じかと問われれば、異なるという答えは容易にでます。
対角線上に立っているのですから、当然、見える景色の構図は異なりますし、Aの景色にはBが存在し、Bの景色にはAが存在するという違いも出てきます。
では、AとBが同じ位置に立っていたとします。
この場合、見える景色は同じかと問われれば、一見同じであるかのように思われます。
しかし、実際には異なっています。
同じ位置に立っているのですから、景色の構図などはある程度一致するかもしれません。
しかし、身長によっても、景色の見え方は異なってくるでしょうし、視線の向け方の癖などでも、景色が異なってきます。
それは若干の違いかもしれませんが、違いは確かに存在します。
そして、AとBのどちらの見た景色が正しいのかと問われれば、どちらの見た景色も正しいのです。
しかし、Aからすれば、Aに見た景色が正しく、Bの見た景色はAには見えない景色なのです。
人は自分には理解できないことを否定しがちです。
その為、AはBの見た景色を、Aにとっては正しくないものと認識してしまうのです。
逆もまた然りです。
このように、同じ物事であっても、物事を捉える中心点が変われば、その成否も変わるのです。
結局、人は、自分の立場でしか、物事を捉えることができないということ、そして、そのとらえたことは、自分にとっての正しい事ではあるが、他人にとっては正しくない事であるということを忘れてはいけないと思います。
それを、忘れてしまっているから、くだらない争いや、小さな衝突が日々繰り返されているのかもしれません。