同じ物事でも、人によって捉え方は異なります。
どう捉えるかは自由
物事の捉え方は、各個人の自由ですし、他者が強制できるものでもないと思います。
同じ物事であっても、人によって捉え方は異なります。
例えば、「阿呆」という言葉がありますが、これは、一般的には人を罵る言葉ですが、関西弁のいわゆるツッコミで用いられることもあり、この場合は罵るというよりは、どちらかと言えば、親しみを込めて用いられることもあります。
同じ「阿呆」という言葉であっても、いわゆる”関西のノリ”を知っている人であれば、罵られたとは思わないでしょうし、知らない人であれば、罵られたと思うこともあるです。
もちろん、前後の文脈や、その場の雰囲気、お互いの関係性なども影響しますが、それら全てをどう捉えるかは、個人の主観に因るのです。
こちらが、”そんなつもりで言ったのではない”と主張したとしても、相手がそれを理解してくれないことがあるように、相手の主観によって捉えられたことが、相手にとっての真実です。
それは、こちらの真実とは必ずしも一致しませんし、いくらこちらがそれは違うと否定しても、相手にとっては相手の真実を否定されていることにしかなりません。
”こう捉えろ”と、訴えたところで、強制できるものでも、矯正できるものでもありませんし、結局のところ、物事の捉え方は、各個人の自由にしかならないのではないかと思います。
どう捉えるかは自由だが、それが正しいとは限らない
物事をどう捉えるかは、個人の自由ですし、個人の自由にしかならないものだと思います。
そして、その捉えたものが、その人にとっての真実ではあると思います。
しかし、それが全てでも、正しいわけでもないのではないかと思います。
物事の捉え方が、各個人の自由である以上、同じことであっても、人の数だけ捉え方があり、人の数だけ、真実があるのです。
ですので、どう捉えるかは個人の自由ですが、それが唯一の正しいものであるとは限りません。
あなたが捉えたことは、あなたにとっての真実ではありますが、他者にとっても真実とは限りませんし、正しいものでもありません。
逆もまた然りで、他者が捉えたことは、他者にとっての真実ではありますが、あなたにとっても真実かと言われれば、必ずしもそうではありませんし、他者が捉えたことが、正しいということではありません。
人は、誰もが自分を中心に生きていますし、自分を中心にしか生きられないものなのでしょう。