人間性が普段の言動に表れると言われることがあります。
例えば、仕事の道具を大切に扱わない人は、物を大切にしない人だといったようにです。
これは、一理あるのかもしれませんが、人はそれが全てではありません。
人は他者の前では自分を演じる
人は、他者の前では、多少なりとも自分という人間を演じています。
人は、他者にこう見られたいとか、認めてもらいたいという欲求を持っていますので、他者の前では、見られたい自分であるよう、認めてもらえる自分であるように演じているのです。
例えば、中高生が自分を尊大であるかのように見せるために、根は良い奴のくせに、いきがっていたり、悪ぶっていたりすることがあります。
これは、他者の前で自分を演じている最たる例だといえます。
そんなものは、精神的発達の途上にある中高生に限ったことだと思われるかもしれませんが、大人になっても、人により程度の差はあれ、自分を演じ続けています。
むしろ、大人になってからのほうが、自分を演じることは多くなるかもしれません。
大人になれば、より大きな社会に出て、より多くの他者、つまり社会的に認められなければならなくなりますので、より良い自分に見えるように、自分を演じるのです。
目に見えるのは、演じられたもの
人は誰でも、自分を演じているのですから、目に映る他人もまた演じられた他人なのです。
演じられた他人なのですから、それが他人の全てではないことは容易に理解できることと思います。
それにも、関わらず、普段の言動に、その人の人間性が表れるなどと言って、自分の目に映るものが全てだと思い込んでいる人は、人の多様性を理解できない人だと言えます。
普段の言動に、その人の人間性が表れるという人は、その人の本質を見ているという意味でその言葉を発します。
つまり人を見る目に自信を持っているということです。
人を見る目に自信を持つのも結構だとは思うのですが、人の普段の言動が、演じられた、その人の一面でしかないということを理解していないものの見方で、その人の本質を見ていると得意になるのは、滑稽であるように思います。
ものを見る目が人それぞれであるように、人を見る目も人それぞれです。
あなたの目で見て評した他者も、間違っているわけではありませんが、それが他者の全てではないということです。
人を見る目があるなどと過信し、自分の目で見たものが全てと勘違いして、他者のことを得意気に批評したりしないほうが良いかと思います。