一流に習うということ
私たちは、大学等の講義や、仕事等の講習や研修、各種講演等で、その業界や分野で”一流”と言われる人から習うことがある。
一流に習うということは、その業界なり分野なりで、評価されている、トップクラスの人から、教えてもらうということだ。
普段はなかなか教えてもらえる機会もあまりない、一流のノウハウを教えてもらえるのだから、単純に考えれば、それだけでもかなりの価値があると思う。
一流に教わりることで、劇的に自分の能力等がアップすることだってあるだろう。
一流に教わることで、自分の習熟度や強み、欠点、一流と自分の差を気づかされ、自分がすべきことだってわがかるようになるかもしれない。
一流に教わるということは、自分次第で大きな価値を持つものなのだ。
一流に習うことで満足してはいけない
一流に習うことは、価値あることだが、世の中には一流に習うということだけで満足してしまっている人がいる。
「一流の先生に教えてもらえて、ありがたい」などと、もっともらしいことを言っている輩がいるが、こういった人が、一流に習うことだけで満足している人の最たる例だ。
一流という言葉に踊らされてしまっているのだろう。
こういう人は、一流に教えてもらったということに満足してしまって、何を得たのか聞いても見てもわからない人が多く、一流に習ったというだけで、何も身に付いていない場合が多い。
一流に教わるということは、もちろん価値のあることなのだが、全ての人に同じだけの価値があるとは限らない。
スポーツの世界では、”一流の選手が、一流の監督(指導者)になれるわけではない”ということはよく言われるが、一流の人でも、教え方が下手な人や、教え方が自分に合わない人というのは必ずいる。
そんな一流に習っても、たいしたことは身に付かなかったということは往々にしてある。
また、自分自身が一流に習うレベルに達していないということだってある。
例えば、Aを身に付けていなければ、絶対にできないBということがあったとして、Aを身に付けていない人が、Bについて一流に習っても、Bができるようになるということはない。
この場合も、一流に習ったからといって、Bが身に付くわけではないのだから、全くとは言わないが、一流にならっても、その時点ではたいした意味がないと言える。
一流に習うということだけで、満足してはいけないのだ。
一流にならっても、身に付けなければ意味がない
つまるところ、一流に習っても、それを身に付けなければ意味がないのだ。
一流に習っても、何も身に付いていなければ、それは習っていないのと同じことだ。
そして、三流に習っても、一流に習う以上に身に付けば、一流に習う以上の価値があるのだ。
多くの人が、一流という言葉、肩書に惑わされすぎなのだ。
一流に習うということは価値のあることだが、一流に習うということにだまされてはいけない。