怒りをエネルギーに変える、怒りを原動力にするなどということがあります。
もちろんそういう人もいるのだとは思います。
しかし、個人的には怒りは原動力にはならないのではないかと思っています。
怒りは一過性
怒りという感情は一過性のものであると思います。
その瞬間はすごく怒っていても、時が経てば薄れてきます。
もちろん、思い出してまた怒るということもあります。
それも、時が経てばまた薄れてくるのです。
怒りがずっと持続しているということはありません。
怒りは断続的なものなのです。
だから、怒った時は、見返してやるとエネルギーに変わったように思えても、持続しませんので、瞬間で消えてしまうエネルギーは、何かを継続するなどといった持久力が求められるような原動力には向かないのです。
2014年にノーベル物理学賞を受賞された中村修二さんは”怒りが研究の原動力”といったことをおっしゃっていたかと思いますが、研究だってコツコツと持続しなければ成果が上がらないものなのではないかと思います。
怒りが、きっかけだったのでしょうが、研究の間中ずっと怒りだけをエネルギーとされていたわけではないのではないかと思います。
探求心とか、向上心とか、成果を上げたいという欲、その研究が好きなどといった、別の原動力があったのではないかなと思うのです。
個人的な勝手な想像で言っているだけなので、誤っているかもしれません。
少なくとも私は、怒りという原動力だけでは、何かを継続・持続して成果を出すということはできません。
怒りはきっかけになる
上でも述べましたが、怒りは起爆剤や着火剤的な、何かを始めるためのきっかけとしてのエネルギーにはなるのではないかと思います。
例えば、成績が悪い事をバカにされて、腹が立ったので、勉強を始めようと思ったというようにです。
怒りというのは、一過性のものですが、瞬間的には強烈なエネルギーを生むと思いますので、それがきっかけになるということは十分にあると思います。
継続するための原動力を見つけよう
事を成したり、成果を上げるためには、おそらくほとんどのことで、継続・持続といったことが必要だと思います。
しかし、怒りはきっかけにはなりますが、継続・持続の原動力にはなり難いと思います。
怒りはネガティブな感情ですから、それをずっと持続させているのは、大変なストレスになるのではないでしょうか。
継続・持続の原動力にはポジティブな楽しいとか嬉しいといった感情の原動力が必要なのではないかと思います。
ですので、怒りをきっかけに始めたことであっても、それに楽しみを見つけて、それを原動力としてほしいと思います。
楽しく継続して、成果を上げ、怒った相手を見返すなんて、自分にとってはいいことばかりじゃないですか。